out of control  

  


   17

 仕事に向き合えばどんな時でも集中できたのに、どうも調子が悪い。
 ちゃんと書いてるつもりが文章を飛ばしたりインクを落したり、あげく内容違いのことを書いていて貴重な羊皮紙を三枚も無駄にしてしまった。
 最後にはシーカーに心配されて薬湯を持ってこられる始末だ。べつにどこか具合が悪いわけじゃないのに、そんな高価な薬を飲むのも気が引ける。
 こんな時はどうしようもないな。結局予定の三分の二を仕上げたところで時間がなくなり、寝台に入った。
 頭を使ったし、疲れてるはずなんだ。それなのになかなか眠れなくて、ランプをつけてまた書類でもやるかと起き上がるとシーカーが飛んできて俺を寝台に押し込むし、気がつくと少しうとうとしただけで夜明けを迎えてそのまま出発する羽目になった。
 まあ、寝不足で移動なんてキルヴァス王時代には日常茶飯事のことだった。だから大したことはない。

「おう、おはようさん! 迎えに来てやったぜ。朝飯はちゃんと済ませたか?」
「………おはよう。朝食はもういい。今起きたばかりなんだ」

 ――そう思っていたんだが、気力だけじゃなく体力まで落ちたらしいな。朝にはすっかり元気になっていたティバーンの強すぎる気配に当てられて、寝不足のだるさにさっきまでは感じてなかった頭痛まで加わった。
 そう言えばこいつは睡眠時間が短かったっけな。いっしょに寝てる時でも、なにかあると寝てる時間が惜しいぐらいの調子で飛び起きて動き回ってた。

「なんだ、どうした? やっぱりおまえ、あれから調子が良くねえな」
「……俺はあんたと違って絶好調ってのが元々ないからな。まあその分絶不調ってほど調子を崩すようなへまもしないから、心配いらない」

 夜が明けたとはいえ、まだ太陽が昇りきってない空は暗い。シーカーが差し出した手ぬぐいで洗顔の雫を拭うと、俺はカーテンをいっぱいに開けてもまだ薄暗い室内の中、ランプの明かりを頼りに荷袋の中をもう一度確認した。
 夜のうちに済ませていてもあとから見直すのは習慣だな。特に俺は水や食料まで持っていくからなおさらだ。
 もちろん鳥翼族なんだからその気になれば現地調達もできる。だけどやっぱり鴉なんだ。俺の狩りの腕は鷹の民ほどじゃない。
 セリノスでともに暮らしてみてわかった。たぶんウサギ一匹狩るにしても、鷹の子どもの方が俺より上手いだろう。もともと俺たちは罠を使ったりする方が得意だから仕方がないんだろうが、鷹の民を見ていると狩りができなくなったら、戦えなくなったら絶望の余り死にたくなるってのはなんだかわかるような気がする。

「ネサラ様、朝食ですが……やっぱり召し上がれそうにないですか?」
「ここに入れておけ。幸い傷みやすい季節でもない。昼といっしょに済ませる」
「はい。わかりました。その、ロッツ殿からネサラ様にといただいたものもあるので入れておきますね」
「ロッツが?」
「あ、はい」

 遠慮がちなシーカーの申し出に着替えながら答えていると、それまで黙って聞いていたティバーンが身を乗り出す。ロッツといえば、そうか。ティバーンの従者の一人だったな。

「なんだこりゃ? 干し杏と…干しいちぢくか?」
「はい。貴重なものですから申し訳ないと思ったんですが、ネサラ様の食欲が余りなくて心配だと話していて…あ。も、申し訳ございません!」

 そこまでにこにこ話していたのに慌てて俺に頭を下げたのは、自分がうっかりティバーンの従者に俺の体調のことを漏らしたからだろう。
 もちろん、これがキルヴァス王時代だったら大目玉もいいところだ。だがまあ、今は俺の体調が悪いかどうかがティバーンに知れて困るわけでもない。
 これがよその国だったら大問題だがな。

「親しくしているのか?」
「はい、その……」
「べつに怒ってない。若い従者同士が仲が良いのは悪いことじゃないだろ。礼を伝えておいてくれ」
「は、はい」

 二人が揃ってどんな話をしてるのかは興味があるな。まあ、大方鷹の民と鴉の民の関係についてどうこう頭を悩ませてるってところだろうが。

「シーカー、ネサラには責任を持って俺が食わせるからな。心配いらねえぞ」
「お願いいたします」
「おう。ネサラ、行くぜ」

 勝手に俺の荷袋を持って行かれたが、身軽なのは助かる。深く頭を下げたシーカーに片手を上げてなにも言わずにテラスに出ると、わざわざ見送りに来てくれたんだな。中庭にヤナフとウルキ、それからニアルチとリアーネ、ニケとラフィエルがいた。
 ヤナフとウルキにはそれぞれ騒々しく、寡黙に励まされ、ニアルチは今生の別れかという勢いであれこれ心配され、リアーネは俺にはにこにこ抱きついて、ティバーンにはなにやら腕まくりまで見せてあれこれ耳元でまくし立てていた。それからニケには母親のように、ラフィエルにはやっぱり兄のように抱きしめられた。
 女神と戦った時のことを考えれば、今回は危険ってほどのことじゃないだろ。すぐ帰ってくるっていうのに、仕方がないな。
 やっと飛び立った時にはうっすらと明るくなって、小鳥たちが賑やかに朝の訪れを知らせていたぐらいだ。
 とにかく、予想外に時間を食った。急いでデインに行かなきゃならない。
 休憩をなるべく取らずに最短で行ったとしても二日はかかる。天候が悪いともっとかかるだろうし、気を引き締めて行かないとな。
 眠りから覚め始めた森と、朱色を帯びた薄い雲を眺めて欠伸をかみ殺していると、昨日とは打って変わって機嫌が良くなったティバーンが鼻歌でも歌いそうな調子で前を進む。
 ………翼で風に乗るのも上手いんだな。いや、当然なんだが。
 なんとなく俺の中のティバーンの印象は「風は捻じ伏せるもの」って飛び方をするっていうのがあるからか。
 戦いの時の印象が強すぎるからかも知れない。俺は魔力で風を馴らして急な方向転換をしているが、ティバーンの場合は文字通り力ずくだからな。
 それでも微妙なぶれもなく敵に対峙出来るあたりの飛行技術の高さは、さすが鷹の王だと感心したものだ。
 俺は小回りを利かせるのが得意だから素早く動けてはいるが、実際は器用なだけで純粋な飛行の技術は熟練した鷹の民には及ばないからな。
 ティバーンの後ろを飛ぶのは、悪くない。風の抵抗が減って楽ができるってのはもちろんあるが、それよりもティバーンの飛ぶ姿を間近に見ていると、……こんなことはむず痒いだけだから絶対に言わないが。なんだかなんでもできるような、誰にも負けないような……そんな気分になってくる。
 あの獅子王、カイネギス殿を王に戴く獣牙の民も自分たちの王をそれは誇らしげに語ったものだが、なかなかどうして。ティバーンの雄姿も悪くないんじゃないか? ――なんて。堂々としたティバーンの背中を見ていると、誇らしいような気持ちになったりして、そんな自分が不思議だった。
 もちろん、言わないがね。今でさえティバーンにはいろいろと譲ってるんだ。これ以上得意にさせるようなことは言いたくない。
 改めて気持ちを引き締めると、俺はときどき思い出したように後ろの俺の気配を探るティバーンに苦笑しながら翼に力を込めた。
 この日飛んだのはトレガレン長城を超えた山の麓までだ。休憩は三回。俺が言い出す前にティバーンが降りたのはたぶん気を遣ってくれたからだろうが、翼の強さが違うのは種族の差なんだから仕方がない。
 俺は持ってきた食料で済ませるつもりだったが、ティバーンが一人分も二人分も同じだと言って俺の分までウサギや水を調達してくれたから、俺の持ってきたものは非常食ということになった。
 村があればよかったんだが、この辺りはさすがにないな。まあ野宿も悪くない。雨露さえ凌げればいいと思っていたら、上手い具合にティバーンが狩りの合間に狩猟小屋を見つけてくれていたから、この夜はそこで寝た。
 火の番はもちろん交代制だ。今までの負担の比重を考えたら俺が一人でやりたいぐらいだが、そんな意地を張って肝心な時に寝不足で倒れたらどうにもならないから仕方がない。
 正直、一人で出てくるべきだったと後悔した。俺といっしょじゃどうしてもティバーンの負担が大きくなる。鷹の民同士、あるいは鴉の民同士ならこんなこともないだろうが……失敗したな。
 もっとも、俺も相手がティバーンでさえなければここまで一方的に迷惑をかけるってことはないんだが。
 次の日は、朝から進路をどうするかで二人でちょっと揉めた。
 俺はガドゥス領を抜ければ山越えがない分楽だと言ったんだが、ティバーンが嫌がったんだ。
 ガドゥス領はあのルカンの治めていた領地だからな。もちろん俺だって通りたくはないが、こんな時にそんなことを言ってられない。
 ましてティバーンが俺に気を遣って嫌がってるのがわかるからなおさらだ。
 腹が立ったからかなり本気で言い合いになりかけたんだが、結局これも俺が折れた。
 命令されたからってわけじゃないが、俺のことだけじゃない。ティバーン自身がまだ気持ちの整理がついてないなんて言われたら、しょうがないだろ。
 そんなわけで、覚悟を決めて険しい山脈を迂回しながらデイン入りを目指すことになったんだが、結局この選択は正解だったらしい。意外な人物に会えたんだ。
 この日は朝から鉛色の雲が低かった。吹雪が近いのがわかって手近な岩だなで早めの昼食を済ませたあと、一つ目の雲を越える高さの山を迂回するルートを考えている時だった。

「ティバーン?」

 ヤナフは特別にしろ、俺よりも遥かに目が良いティバーンが急に座っていた岩だなを降りて森の一点を凝視し始めたから驚いたんだ。
 なんだ? なにかあるのか?

「森の木が揺れた。獣が出たな」
「獣? ……木が揺れたってことは、大きいのが暴れてるってことか?」
「そうだ。冬眠していたヒグマに猟師が襲われたのかも知れん」

 言うが早いか、あっという間に化身したティバーンが飛んで行って、俺も慌てて後を追った。この辺りに大きなヒグマが出ることは俺も知ってる。
 ティバーンは確かに強いが、ヒグマの力は別格だ。後ろ足で立ち上がるとベオクの家より大きい個体もいる。いくらティバーンでもヒグマに殴られたらただでは済まないからな。あのお人よしがうっかり誰かを庇って怪我でもしたら大変だ。
 ちらちらと雪が降り始めた灰色の森に近づくと、俺の耳にも獰猛な唸り声が届いた。太い木も数本激しく揺れてる。
 くそ、どうやら本当にヒグマらしいな。
 誰が襲われてるのか知らないが、生きてるといいんだが……。
 半ば諦めながら距離を縮めたところで、いきなりティバーンが化身を解いた。もちろん驚いたさ。化身してたって危ないのに、もし人型の時にヒグマに襲われでもしたら……!
 青くなる思いで飛び込んで、葉は少なくても細い枝が入り組んで視界の悪い森を見下ろして俺は驚いた。
 さっきまでの慌てていた様子はどこへやら。ゆったり腕を組んで見物を決め込んだティバーンの下には、確かに大きなヒグマがいる。だが、それに対峙しているのはベオクの猟師じゃなくて、こちらも負けずに大きな赤獅子だったからだ。

「スクリミル〜! いくらなんでもあんなのに殴られたら危ないんだから、おとなしく鷹王の力を借りとけよッ!」

 ヒグマと赤獅子から離れた太い木の陰には尻尾を丸めた水色の猫もいて必死で説得しているが、赤獅子の答えはひときわ獰猛な唸り声だ。
 獣牙のライとスクリミル…!? どうしてこいつらがこんなところでヒグマと戦り合ってるんだ!?

「ネサラ、おまえも化身を解け」
「………」
「まあ、心配いらんさ。もし危なくなったら俺が行く」

 楽しそうに笑うティバーンの横顔をぽかんと眺めながら、俺は言われた通り化身を解いた。
 冬眠に失敗した若いヒグマじゃないな。うっかりとこいつの棲家に入り込んで殺し合いになったってところか。充分脂をつけた重量級の雄のヒグマと、現獅子王の一騎打ちだ。そりゃ森の大木だって揺れたり折れたりもするだろう。
 白い息を噴き出すように咆える口の大きさも獲物を噛み砕く牙の太さも互角。だが、恐らく被毛の厚さと腕の力はヒグマの方が上だ。ヒグマの爪はベオクの鋼の武器のように鋭くて固い。
 スクリミルの爪も強靭だが、それでもヒグマほどじゃないはずだ。猫のライが最初から尻尾を丸めて逃げたのは正解だな。
 ……それにしても、なんだかあいつはいつもああやってとんでもないヤツの相手をさせられてる気がするんだが。

「ネサラ、危ねえから近づくなよ」
「怪我をしてる」
「あ?」

 スクリミルが鋭い薙ぎ払いをかわして重い頭突きでヒグマのバランスを崩した隙に、俺はティバーンから離れてこっそりとライのそばに下りた。
 俺はべつに戦いが好きなタチじゃないからな。こんな血生臭い戦い、ティバーンみたいにわくわく見守る気にはなれん。
 だからじゃないが、はらはらした様子でスクリミルを見守っているライの肩に赤いものを見つけて降りてきたんだ。

「どうも、鴉王。お元気そうでなによりです」
「あんたの王の方が元気なんじゃないか?」
「元気すぎて参りますよ! ったく、だから山側はやめようって言ったのに…って、うわああぁ、見つかった〜!!」

 気さくな様子で俺に色違いの目を向けたライの大きな声に、ヒグマの耳と小さな目がこちらを向く。
 ……いや、今のは自業自得だろう?
 ライは全身の毛を逆立てて後退ったが、俺はとっさに飛ぶこともできなかった。
 なんというか…比べるべきじゃないのかも知れないが、それでも口元から血とよだれを垂らして仁王立ちする巨大なヒグマには、あの黒竜王を前にした時のような迫力と圧力を感じる。
 いや、黒竜王とはまた違うか。野生動物ゆえの明確な殺意――。
 それから、思い知らされる。
 俺はこいつにとっては捕食される側、獲物なんだってことを。

「鴉王、ぼーっとしてたら危ないッ!」

 竦んだのが本能なら、化身して戦闘態勢に入ったのも本能だ。
 ライの上げた悲鳴のような声にスクリミルが吠え立ててヒグマと俺の間に回り込もうとするが、ヒグマの方が早い。疾風の刃をヒグマの顔面に叩き付けると、俺は翼を狙った爪をかわして舞い上がり、「あ」と間抜けな声を出した。
 俺がかわしたら、ライが危ない!
 ライは猫だ。素早さならヒグマとは比べ物にならない。だがそれも平地でのこと。
 障害物の多い森ではそうは行かない。
 こんなことで獅子王の片腕が殺されたとあったら外交問題にまで発展する!

「ライ! 化身を解け!」

 だが、慌てて庇いに向かった俺の後ろから大鷹が鋭く降りて、必死に逃げながら化身を解いたライを寸でのところで拾い上げた。
 追いついたヒグマの爪が一瞬前までライがいた空間を薙ぐ。間一髪もいいところだな。その一撃が当たった不幸な木が一本、めきめきと音を立てて折れた。
 ライが化身を解いたティバーンにかじり付きながらでもスクリミルを探す根性に笑いながら俺も化身を解くと、ようやく追いついてきたスクリミルが怒りの咆哮を上げて強靭な後ろ足で凍った地面を蹴り、太いヒグマの首に噛み付いた。
 鋭く太い獅子の牙が深々と刺さって身の毛もよだつ悲鳴が上がる。めちゃくちゃに前足を振り回すヒグマの爪が決して細いとはいえない周囲の木々をまとめてなぎ倒し、そのうち何度かは爪がスクリミルの身に当たったのが見えた。

「スクリミル…!」
「勝負あったな。心配すんな。傷薬ぐらいわけてやるさ」

 心配そうにじたばた降りようとするライを小脇に抱えてティバーンが満足そうに言う。感心するところが違うかも知れないが、さすがは獅子だな……。あいつらの筋肉は、鎧かなにかか? 俺だったらスクリミルが当てられた内の一撃でも致命傷になってそうなところだぞ。
 しばらくするとヒグマの抵抗が弱くなり、断末魔の痙攣が起こった。だが、まだだ。ここで離して最期の一撃を喰らうこともあるからな。
 それを警戒して見守っていると、スクリミルもその点は充分承知していたようでもう一度とどめとばかりに深く牙を立て、口から離してどっと地面に大きな頭を落として弱々しくもがくヒグマの頭に強烈な一撃をお見舞いした。
 頭蓋が砕ける嫌な音がして、ヒグマの耳から鮮血が飛ぶ。それで完全に事切れたようだった。

「スクリミルッ! 怪我は!?」
「ふん。こんなもの、かすり傷だ」

 ティバーンに担がれてじたばたしていたライが身軽に飛び降りた先で、化身を解いたスクリミルが悠然と燃え盛る炎のような赤毛を乱暴にかき上げた。その腕や頬、脇にくっきり残って血が滲む太い爪痕はなかなか壮絶だ。
 いや、しかしヒグマと戦り合って、しかも爪を受けてあれだけで済んでるんだからやっぱり獅子ってのはすごいな。

「よお、スクリミル。……いや、今は『獅子王』か。相変わらず元気そうじゃねえか」
「当たり前だ! 鷹王、それに鴉王も久しいな。鴉王は相変わらず青白いが、ちゃんと食っているのか?」

 ティバーンに続く形で俺も降りると、スクリミルは太く重い手で俺の肩を叩いて豪快に笑った。
 はっきり言って、痛い。参ったね。俺たちは空を飛ぶために進化したんだ。体重が軽い分、鳥翼族の骨は細くて弱いんだぞ。こいつと付き合うとそのうち骨折させられるんじゃないか?

「スクリミル、馬鹿力で鴉王を殴るな! 怪我させちまうだろッ。そーゆう挨拶は鷹王にしとけ、鷹王に!」
「おお、そうか!」
「……鳥翼王相手もやめてくれ。ティバーンもこう見えて一応鳥翼族なんだから、骨が折れたら困る」
「心配しすぎだ。俺はそこまでやわじゃねえよ」
「そうだぞ! 王に対して失礼なヤツだな!」

 顔色を変えて抗議してくれたライに対して、当人の二人の返事はこの通りだ。俺とライはそれぞれ別の方向を向いて頭を抱えた。
 ああ……なんか、苦労するな。お互いに。
 力なく苦笑するライが気の毒になる。

「それより、なんだってあんたたちが二人してこんなところでヒグマと戦り合ってたんだ? ガリアも大戦の後の初めての冬なのに、大丈夫なのか?」

 とにかく、傷の手当が先だ。俺はそう訊きながら自分の持っていた調合薬を取り出して爪が掠ったらしいライの肩の手当てをしてやろうとしたら、ライが痛みに耳を震わせながら答えてくれた。

「んー、クリミアからいろいろ妙な話が流れてきてましてね、オレたちも調査に加わろうってことになったんですよ。ホントはオレだけ来る予定だったんですが、前獅子王であるカイネギス様とジフカ様が国を見ててくれることになって…いててッ」
「この季節に山を越えるのだ。こいつだけではデインにたどり着く前に死んでしまうかも知れんと思ってな。どうだ? 俺が来て正解だっただろう」
「オレは止めたのに、意気揚々とアイツの巣に入り込んだのはあんたでしょーが! あんたがそんなことしなけりゃ、こんなことになってないっつーの!!」
「む、吹雪きそうだったんだから、仕方がないだろう!? 寒い寒いとずっと文句を言っていたのはおまえではないか! だからせっかく俺が休憩場所を見つけてやったと言うのに、その言い草はなんだッ!!」
「アホかッ! ヒグマと殺し合うぐらいなら、寒いの我慢して歩いた方がマシに決まってるわ!!」

 ………なんだか、物凄くよくわかる話の流れだな。
 あー…そう言えば、あのユンヌに言われて三部隊に別れた時、ライがなぜか俺にやたらぺこぺこ頭を下げて行ったんだよなあ。つまり、そういうことなんだろう。

「おいおい、わかったから落ち着け。まあ合流できて良かった。おまえたちがデインを目指してるという話は聞いたからこっちにヤマを張ったんだが、当たってなによりだぜ」
「え? 知ってたのか?」
「ん? まあな。ガリアから書状が来てたんだ。ただ、どこを通るやら、デインにつくまでに会えるかの保障もなかったから黙ってたんだが。言うとおまえが探そうと言いそうでな」
「あ…当たり前だろう! ガリアの獅子王とそのお付きなんだぞ!?」
「いやあ、でも寒いしよ、おまえの負担になるかと思ってだな」
「そんな気遣いはいらん! あんたは外交をなんだと思ってるんだ!?」

 だが、今度はティバーンの言い草に腹を立てた俺が怒鳴って、こっちまで言い合いになっちまった。
 これには逆にスクリミルとライが顔を見合わせてそれぞれが止めに入った。

「まあまあ、鷹王…じゃなかった。鳥翼王か。とりあえず俺たちもおまえたちも無事だったんだから良かったじゃないか」
「そうそう。鴉王は相変わらずですねー。そんな繊細な神経で鷹王…っと、鳥翼王と仲良くやれてるんですか?」
「な、なんでおまえまでそんな話になるんだ!?」

 悪気のなさそうな笑顔でぽんぽんと肩を叩かれて思わず後退ったんだが、ライはきょとんと不思議そうな顔をして言ったのだった。
 まったく……頼むから、最初から紛らわしいことを言わないでもらいたいものだね。

「え? だって鳥翼王の補佐をしてるのって鴉王なんじゃないんですか?」
「あ…あぁ、そういうこと、か……」
「はい? ほかになにか意味があります?」

 ますます不思議そうに色違いの目を瞬かれて、俺は一人で疲れ果てた。
 スクリミルは気にせず自分が斃したヒグマを検分してるし、ティバーンは肩を揺らして笑ってるし…最悪だ。
 そうか。ガリアまではあの馬鹿な噂は届いていないのか。
 ………当たり前だな。まったく、俺もどうかしてる。

「いたたたッ! しみるッ! しみるぞ、鳥翼王!!」
「消毒だ。我慢しろ」
「あはは、血が止まらなかったら焼く道具も持ってるし、消毒はちゃんとしとけよ〜」

 忘れていた頭痛がぶり返した気がして眉間を押さえて項垂れていると、賑やかな声がしてちらとそっちを見て、俺は今度こそ座りこみたくなった。
 傷薬は貸すって……やっぱり酒か……ッ!!
 大体、血が止まらなければ焼くって野蛮にもほどがある。男なんだから傷が残るどうこうは気にしなくても良いかも知れないが、傷跡が引き攣れたら動きに支障が出るんじゃないのか?

「ん? どうした?」
「調合薬だ。特効薬を持ち歩けとは言わないが、二人ともせめてこれぐらいの薬は持ち歩け。……こんなところを通るなら、酒は傷に使うより飲む方に回すべきだろ」
「おう、そりゃそうだ」

 納得してくれて良かった。野蛮の代表格の二人が揃って頷き、傷口にぶっかけていた酒の入っていたスキットルの蓋を閉めるのを見届けて、俺はスクリミルとヒグマの壮絶な殺し合いの跡を眺めた。
 被害は小さくないな。これがセリノスの森ならラフィエルが泣いて大変だったろう。
 倒れた大きな老木の根元には立派なうろがあった。……かわいそうに。冬眠中だったんだろうな。巻き込まれた森ネズミの親子が死んでいた。

「……オレたちのせいですね。他にもいろいろ巻き込んだろうな。蛇とか……」
「森を通らせてもらってる気持ちを忘れちゃいけない。食料にするわけでもなんでもないこんなことで死なせたり、森を傷つけるのは良くないぞ」
「はい。反省してます」

 そう呟いたライの水色の尻尾が垂れ下がり、そっと屈んだライは事切れた森ネズミの親子を両手に抱えてしょんぼりと頷いた。

「ライ……」

 悪気はなかったんだろうから、ちょっとお灸がきつすぎたか?
 そう思ってなにか一言慰めようと思ったんだが。

「スクリミル! オレたちの巻き添え食って死んだネズミだ。責任取って食おうぜ!」
「おう、それはいかん! 食ってやらんと可哀想だな!」

 こ、こいつらのこの感覚は、やっぱり信じられん…!!

「ははは、そらそうだ。おまえら、わかってるな!」
「獅子王として当然だ。小さきものをこのような形で死なせてしまった。それをただ無意味な死にするわけにはいかん。おお、雪も酷くなってきたな。ライ、鴉王、こいつのねぐらは立派だからきっと温かいぞ。さっそく使わせてもらおう」
「あー、寒いッ! 鴉王、さあさあ、吹雪になる前に行きましょうよ!」

 ティバーンも感覚はこいつら寄りだ。それはまあ、そうだろう。
 もちろん俺もこいつらの言うことがわからないわけじゃないが……なんだろうな。妙な疎外感を感じる。
 ライに引きずられるようにして入り組んだ木の間を通り抜けたら、背の低い常緑樹の茂みの奥に隠れるようにしてその穴倉が見つかった。

「うわ、クマ臭ぇ……」
「そりゃここで冬眠してたんだから仕方がないだろう。む、木の実もいくつかあるな。枯葉もだ。火を焚かなくても充分温かそうだぞ」

 俺たちには真っ暗な穴ぐらにしか見えない。真っ先に中を覗いたライが顔をしかめて横を向くが、スクリミルは気にした様子もなくずかずかと中に入った。
 ……ここに入るのか? 本気で?

「ネサラ」
「…………」

 正直、気は進まないがね。だが、ティバーンがそのつもりなら仕方がない。渋々と茂みをかき上げて中に踏み込むと、とたんに視界が真っ暗になった。

「鳥翼王、オレの手をどうぞ」
「鴉王は俺に掴まるが良い」

 二人とも一応、俺たちが暗闇だとなにも見えないことを覚えてるんだな。スクリミルの巨大な手が返事も待たずに俺の腕を掴んで、ぐいぐいと引きずられる。
 見えない場所を歩くのは不安なものだ。この大雑把な赤獅子にそれがわかるはずもなく、最後には小脇に抱えられるようにして少し広くなってるらしい場所に下ろされた。
 獣の匂いがするな……。もういないはずのヒグマがまだ潜んでるような気がして落ち着かない。
 すぐ横で小枝を踏む音がして無意識に肩が揺れた。……ティバーンの気配だ。ティバーンも平気そうにはしてるが、見えなくて不安なんだろうな。俺に身を寄せるようにそばに座って、なにかごそごそと探る音がした。

「鳥翼王? ランプですか?」
「ああ。さすがにまったく見えねえのはちょっとな。つけてくれるか?」
「そっか、見えないんですよね。わかりました」
「おまえたちは火が苦手なのにすまねえな」
「いえいえ、ランプの火ぐらいは平気ですから」

 俺の腰を引き寄せたティバーンの腕越しに、チカリと何度か光が見えた。なかなか点かなかったが、良かった。芯が濡れたわけじゃないんだな。ほどなく小さな光が灯って、それだけでほっと肩の力が抜ける。
 暗闇はちょっとな……。元老院の連中に閉じ込められたり、真夜中の海を飛ばされたことがあって、正直苦手なんだ。まあ鳥翼族は誰でも苦手なんだから俺だけじゃないが。

「はー、ちょっと暖かくなりましたねえ」
「鴉王は冷え切ってるな。どれ、暖めてやるから来い」
「は? いや、俺はべつに……」
「ライも鴉王も肉が薄いから寒さは殊更辛いだろう。俺の冬の毛皮はふかふかだぞ!」

 太い腕がぐいと俺とライを引き寄せて、空気を重くするほどスクリミルの気配が濃くなる。

「う、わ」
「おぉ〜さすが獅子の毛皮! やっぱりふっかふかでは一番だな!」

 首の後ろからもふっとしか言いようのない圧力で毛皮がのしかかり、瞬く間に俺とライの背中がまとめてスクリミルの巨体を包む毛皮に埋まった。
 こ、この一番もっふりしてるのはたてがみか!? スクリミルの方は楽しそうに笑ってるつもりなんだろうが、耳のすぐそばに猛獣の息遣いを感じて総毛立つ。
 慌てて離れようにも俺を押さえ込んだ獅子の前足は余りにも太くて重く、どうにも身動きが取れなかった。

「自前の毛皮か〜、いいよなァ。ネサラ、あったけえだろ!?」
「あったかいですよ。毛並みはオレの方がずっと気持ち良いですけどね!」

 ティバーンとライも笑ってるが、俺の心臓は縮み上がりそうだ。いや、スクリミルに悪気はない。殺気もない。
 しかし、ヒグマの匂いがする上に獅子にこんな真似されたんじゃ、正直な話、神経がおかしくなりそうだった。

「お二人とも、食事は?」
「もう済ませた。気にせず食え」
「そうですか。じゃあ早速いただきます」

 温かいかどうかもわかる余裕もないのに、そのまま二人はさっきライが持ってきた森ネズミをバリボリと食い始め、俺は本当にこの場から飛び出したくて堪らなかった。
 悲しいかな。どんなに嫌でも、辛くても、自制することはできる。これもあの苦しかった日々に培われた忍耐力なんだろうな……。
 そのまましばらくスクリミルに押さえつけられてたんだが、羨ましそうなティバーンを説得してなんとか入れ替わると、俺はようやく息をついて落ち着いてランプの光に照らされた辺りを見回すことができた。

「結構な広さだな」
「あのヒグマはこの森でも相当強かったんだろうさ。これだけのねぐらを確保できてたんだからな」

 背中をゆったりと大きな赤獅子に預けて干し杏を口に運ぶティバーンはなかなか様になってる。……本当に寒かったのか? 単にスクリミルの毛皮に興味があっただけとしか思えないな。

「この音は完全に吹雪いてますね。外、見てきましょうか?」
「いや、中に吹き込むこともねえだろうしいいさ。……早く止むといいんだがな」
「ですねえ」

 ティバーン一人なら、雪雲の上に出て飛んでいける。ここで足止めを食ってるのは俺がいるからだ。
 スクリミルたちも合流するつもりなら、ここで別行動した方がいいな。幸い、俺が庇わなきゃならないほど弱い二人じゃない。
 ライは口では情けないことを言ってるがさっきヒグマに対峙した時も、隙あらばというかスクリミルが危なければいつでも飛び掛る姿勢はできていた。
 この二人と空を飛べる俺がいれば、まあなんとかなるだろう。
 そう考えをまとめると、俺は早速スキットルの酒をあおるティバーンに向き直って言った。

「ティバーン、あんたは先に行け」
「あ?」
「どんなに天気が荒れてたってあんたなら心配ない。あんたは雲の上を飛べるだろ?」
「………」

 俺の言葉に、二人が「あ」と目を合わせる。
 そうだ。雲を超えて飛べるティバーンがわざわざ俺たちに合わせてのんびり行かなくてもいい。
 でも、それだけじゃ納得しないからな。俺はティバーンがあれこれ理由をつけて断る前に、神妙な顔をして言ってやった。

「普通の鷹だったら、風が荒れた時は雲の上に出ることはできないかも知れないが、あんたなら行ける。リュシオンが心配なんだ。こんなに時間がかかって、きっと心配してる。……俺が直接行けたら一番なんだが、仮にあんたが俺を連れて飛んでくれても、雲の上だと俺は長くもたない」
「そりゃそうだが、おまえらだけ残して行くってのはどうも……」
「獅子王と鴉王が揃ってるのにか?」

 あえてそこを強調すると、ピクリとスクリミルの耳が動く。

「それはそうだ。心配いらんぞ! 鴉王は強いが、俺はもっと強い。山を越えるのは俺たちも得意だ。そう遅れんと合流できるだろう。とりあえず、ノクスで良いのだな?」
「ああ。そこからダルレカを抜けてネヴァサに行く。いい加減待たせてるからとっとと行きてえってのもあるんだよ。なんだったら俺が担ぐぜ? ネサラも化身すりゃライを担いで行けるだろ」
「え、本当に?」

 また余計なことを…!
 疲れるんだよ。第一、背中に獣牙族を担いで行くなんて、気分的に勘弁願いたい。
 慌てて断ろうと思ったんだが、その前に期待いっぱいの目でライが俺を振り返るし、スクリミルはスクリミルで満更でもなさそうに「それは良いな」なんて言ってやがる。
 ……そう言えば、砂漠では竜騎士の二人もいっしょだったんだよな。ハールの騎竜に乗せてもらってご機嫌だった。
 今が冬じゃなければ、仕方がない。俺も折れたんだが、今は駄目だ。

「無理だ。確かに化身さえすれば俺もライなら運べる。だけど時期が悪い」
「時期?」
「そうだ。この辺りはまだまだ真冬だ。化身した状態なら毛皮もあるし、空を飛んで移動したってそれほど辛くないかも知れない。でも化身したらティバーンにだって運べないだろ? 風除けがないんだ。人型のまま、雪の中を飛ばれて本当に大丈夫だと思うのか?」

 目を瞬いたスクリミルに噛んで含めるように説明すると、ライが残念そうに耳を伏せて「そっか〜…そりゃそうだ」と項垂れた。
 期待していただろうから、その姿を見るとちょっと可哀想になるな。でも、さすがに立ち直りが早い。
 未練たらしく腕を組んだスクリミルの前に身を乗り出してティバーンに言ったんだ。

「鷹王!…じゃなくて、鳥翼王! アイクに会ったら、必ず行くから待ってろって伝えてもらえますか?」
「おう、そりゃ構わねえぜ。おまえだけでもいっしょに行くか? 外套被りゃ少しはマシだろ」
「仕事は仕事ですからね。そう伝えてもらえたら、きっとすれ違いにはなりませんから」

 そうか。……こいつはアイクと仲が良かったんだよな。猫は人懐こく見えるが、実際には計算高くて相手が信じるに値するかどうか、しっかりと見極める。案外冷めた目で観察してたりもする。
 だがその代わりに、一度心から信じたらその信頼が覆ることは決してない。そんな意味では恐らく鷹よりも血は熱い。
 だから、獣牙の民が一番狩られた。ニンゲンの中には人の信頼を利用する奴らがいる。信頼された本人が利用しなくても、その周りのニンゲンが利用したりするんだ。
 そんな過去があっても、やっぱりニンゲンを…ベオクを信頼できるんだな。まあ、アイクたちのことは俺だって信用してないわけじゃないがね。
 でも俺はこうやってあからさまにそれを表に出すことはできない。

「わかった。伝えよう。スクリミル、また天気のいい日には担いで飛んでやるよ。俺の飛ぶ空はおめえがガキのころにしてもらった獅子王の肩車より高ぇぞ? もちろん、竜騎士よりもな」
「ふん、俺にとっては叔父貴の肩の上から見た世界よりも驚く風景などありはしないが、楽しみにしておくとしよう」

 やれやれ、話がまとまったか。それならとっとと追い出すとするかね。雲の上に出るんだったら、吹雪だろうと嵐だろうと関係ない。
 俺はまだスクリミルの毛皮に埋もれて座るティバーンのそばに寄ると、俺の荷袋を手渡して言った。

「決めたならさっさと行け。今ならまだ明るい。雲の上からなら、あんたなら夜までにノクスまでつけるかも知れない」
「どうだかな。風向き次第だ。……せっかちだな。そんなに俺に離れて欲しいのかよ?」
「茶化すな。そんな意味じゃない」

 笑ったティバーンが飲みかけていたスキットルを俺の唇に押し付けたが、俺はそれをむしりとってきつく言った。

「はいはい、ったく怖ェかみさんだぜ。行きゃーいいんだろ」
「ティバーン、水と食料は持って行け。いくら鷹でも、吹雪が続いたら獲物を探せないかも知れないだろ」
「いらねえよ。そう何日もかかるわけじゃなし。それより、この辺りに出るのはヒグマだけじゃねえ。気をつけろよ」
「わかったから…ッ」

 しつこいティバーンの腕を掴んで立たせようとしたところで腰から引き寄せられ、思いっきり口づけられる。…って、違うか。口移しに酒を飲まされた。
 スクリミルはぽかんとしているが、ライには下品に口笛を吹かれて慌ててもぎ離すが、ティバーンは面白そうに笑ってるだけだ。

「こうでもしねえと、いくら飲めって言ったって聞かねえからな。しょうがねえ。ライ、スクリミル。俺は一足先に行くぜ」
「くそ、とっとと行っちまえ!」

 火のように強い酒が喉と胃を灼く。最後に舐められた唇を慌てて拭きながら離れたら、ティバーンはのっそりとスクリミルから離れて出口に向かった。
 ……ここまで唸り声みたいな吹雪の音が聞こえる。本当に天気が荒れてるんだな。
 雲の様子から見て長く続く吹雪じゃないと思ったからここまで来たが、さすがにちょっと心配になる。

「見事に真っ白でなにも見えねえな! ネサラ、中に入ってろ!」
「そんな気遣いはいい!」

 もう一度押し付けようとした荷袋は俺じゃなくてライに投げつけられた。ったく、本当に言うことを聞かない男だな!

「………」
「え? 聞こえない!」

 伸ばした手の指先どころか。下手したら目の前に立つティバーンの顔も見えない。
 なにもかも白く塗りつぶされた視界の中、凍えるような風に紛れたティバーンの言葉が聞こえなくてそばによると、なぜか抱きしめられた。
 暖かいな。一瞬浮かんだ場違いな感想の後でほとんど耳元にくっつけるようにしゃべったティバーンの声が聞こえる。
 風邪をひくな。早く来い。それから……。

「今度は、逃がさねえぞ」
「え…」

 戸惑う俺から少し離れて、頭に口づけられる。それから吹雪さえ跳ね飛ばすように緑の光が膨らんで、大きな鷹が羽ばたいた。
 ああは言ったものの、この風の荒れようだ。正直、ティバーンでも無理かも知れないと思ったが、いらん心配だったな。
 風の道を読めるから、あいつは風をねじ伏せて飛べるんだ。
 雲を越える前に合図してくれたんだろうな。瞬く間に姿は見えなくなったが、猛禽独特の高い鳴き声がした。
 やれやれ。……行ったか。

「ん?」
「風邪をひきますよ! 入りましょう!」

 しばらく馬鹿みたいに風に煽られながらただ白いだけの空を見上げていたら、ライに腕を引かれた。
 そうだな。こんなとこに突っ立ってたら風邪をひく。
 なんだか素直な気持ちでライに手を引かれるままほら穴の奥に戻って座る。あっという間に雪にまみれた身体がずいぶん冷たかったが、それはライがせっせと手ぬぐいで払ってくれたからずいぶんましになった。
 これで焚き火の一つでもあればいいんだがな。ないものは仕方がない。

「ほれ、鴉王。来い」
「………遠慮する」
「しかし、夜はそのまま寝られんぞ? 遠慮はいらん」
「だからいいって…! おいッ!」
「スクリミル〜、そーゆうのは遠慮じゃないからさあ」

 やれやれ。これでやっと落ち着いて話ができると思ったら、相変わらず人の話を聞かない奴だ。まだ化身したままのスクリミルが俺の襟首を咥えて引きずり倒し、また俺をあの毛皮の中に埋めた。
 ライがいなかったら、確実に俺もこいつを置いて出発したな。いや、一応距離を取って無事かどうか見守るぐらいのことはするが。
 でなきゃ神経が持たん!

「吹雪が止んだら、すぐに出発する。だから今のうちに寝ておけ。俺も寝る」
「スクリミル! あのな、オレたちは夜だって平気で動けるけど、鴉王は日のある内しか動けないんだよ。わかってるか?」
「む、それなら夜は俺が担いで歩けば問題なかろう? 鴉王は寝ていればいい」

 …………獅子の背中でぐうすか寝られるほど神経が太ければ、俺の苦労も少しは少なかったかも知れないな。とりあえず、天候が荒れないことを祈ろう。
 このままいらんやり取りに神経を使うのも馬鹿馬鹿しい。そう思って俺は二人の言い合いから意識を逸らして強引に目を閉じた。
 本当に寝られたら一番なんだが、まあ無理だろうな。それでも横になれるだけましだと考えるしかない。
 しばらくして言い合いにも飽きたんだろう。俺の横にライが転がる。スクリミルも大きな欠伸をして、巨大な前足に頭を乗せて眠りだした。
 ゆったりとした寝息も大きくて深い。上下する腹にもたれてるのがなんだが不思議だ。
 ……腹の毛は、柔らかいんだな。獣牙族の毛皮はそれぞれさわり心地が良いと聞くが、本当らしい。寒さにも強いはずだ。これだけ分厚い毛皮を持ってるんだから。
 その分、夏は辛いかも知れないが……いや、夏毛と冬毛があったんだったか?
 疲れてたからだろう。自分でも自分の思考がとりとめなくなっていくのがわかった。おかしなものだ。ヒグマの匂いを嗅ぎながら獅子の毛皮に埋もれて眠くなれるとは、俺も意外に図太いじゃないか。
 小さく笑って、俺はそのまましばらく浅い眠りについた。

 結局この日は吹雪が止まなくて、俺たちはこのまま足止めを余儀なくされた。ティバーンを先に行かせたのは正解だったな。あんまり遅くなるとリュシオンが本当に心配の余り迎えに行くなんて言い出してたかも知れない。
 夜中に一度スクリミルの大きな腹の音で目が覚めて、あんまりしょぼくれてるもんだから、なんだかティバーンを思い出してな。非常用にしようと思っていた干し肉と固いパンを食わせてやった。ライは遠慮したが、どの道この天気じゃ狩りにも出られないだろうから仕方がない。
 ただ、俺なら三回にわけて食べる量をぺろりと食われたのには驚いたがな。こいつは、非常食の意味をちゃんとわかってるのか?
 このまま吹雪が止まなければ、俺自身が非常食にされそうだと思うのが気のせいならいいんだが。
 ライには大慌てで謝られたが、俺は苦笑しただけで特に文句も言わずに寝ることに専念した。
 吹雪が落ち着いたのは翌日の午後だ。食事は我慢できるが、水を我慢するのは辛い。雪を溶かした水は冷たい上に、飲みすぎると腹を下すから調達が面倒だった。
 獣牙族の二人の腹はこの程度でびくともしないが、俺は別だ。幸い水場の位置は覚えていたから最低限は確保できる。スクリミルが俺の非常食を食ったことをよほど気に病んだらしいライが水汲みに行ってくれたおかげで、俺はスクリミル相手にあれこれとゆっくりと話をすることができた。
 もっとも、スクリミルが相手だとほとんど政治についての講義になるんだが、これは想定の範囲内だ。とりあえず過去の情勢と今の情勢、それからこれからのやり方でどこかどう変わるかの話を理解してもらえたらいい。ガリアもセリノスと似たようなもので、政治的な方面はほぼライが担っているようだし、これからはそこに獣牙の中では冷静な狼も加わるんだから悲観したものじゃないさ。
 ………個人的には狼女王にガリアを治めて欲しかったがね。こんなことを言うと政治問題に発展するから言わないけどな。
 スクリミルは誰かの教えを素直に聞くタチじゃないが、ニケなら上手くやってくれそうだ。

「鴉王、そっちはどうですかー!?」
「大きな岩がごろごろしてるな。足場も良くない。ライは俺が担いで越えるとして、スクリミルが心配だな。スクリミル、あそこの岩だなまでいけそうか?」
「ふん、あの程度どうということはない」

 雪が止んで空を確認すると、もう雪雲は落ち着いていたから俺たちはとっとと出発することにした。
 とにかく、デインに入るにはこの山を越えなきゃならない。俺が指した岩だなは大きな岩がごろごろ転がるはるか上だ。俺の目から見てとっかかりにできそうな部分はそんなにないんだが、スクリミルは自信満々の様子で化身したまま走り出した。
 ……結構な高さがあるんだがな。もし途中で落ちたら大怪我をするんじゃないのか?
 心配になって化身して後を追おうとしたら、ライが笑って俺の腕を掴んで引きとめた。

「獣牙族ってのは身軽なんですよ。まあ見ててください」

 ところどころ凍った雪がついた岩山は白い。岩肌のほんの少しのでっぱりを上手く利用しながら、赤い獅子が鮮やかに俺の指した岩だなまで駆け上った。
 すごいな。あれだけ重い体をしてるってのに大したものだ。

「脆い岩だと危ないんですけど、このぐらいしっかりしてりゃ、どうにかなるもんです。ほら、王が呼んでますよ。オレたちも行きましょう。あ、この程度ならオレはこのままでも行けますからご心配なく」

 とりあえず、それならライを連れて飛ぶかと思ったら、ライは人型のままでするすると鮮やかにスクリミルが咆える岩だなまで上ってしまった。
 なるほどな。獣牙族は人型でも腕の力も、足の力もベオクよりは強いってことか。
 これなら心強い。俺は落ち着いた様子の空を見上げて雲の変化に気をつけながら、二人が通れる道を空から探した。
 もちろん、他の獣の警戒もしながらな。基本的に俺たち鳥翼族は鳥からは仲間扱いされてるが、それでも大鷲なんかは別だ。
 でかいのになると化身した俺を越えるやつもいるし、生まれたてなら子牛や子馬だって軽々と獲物にする。こいつにだけは警戒が必要だからな。
 スクリミルたちが岩場を登る時が一番危ない。この辺りが生息域だから気をつけてたんだが、一度見かけた時には大きな猪を狩って巣に帰る途中だったから特に攻撃されたりはしなかった。
 あいつらは一個体あたりのテリトリーが広い。あの獲物の大きさならしばらく狩りに出ることはないだろうし、子育ての季節でもないし、こっちから巣を攻撃するような真似さえしなければ心配ないはずだ。
 俺はティバーンと違って人を担いで飛ぶことは苦手だからもしもの場合を考えてティバーンを先に行かせたが、天気の心配さえないなら担いで行った方が楽だったかも知れないな。
 この辺りの山はそれほど高くないが、それでも山頂まで行くと身体が辛い。二人が通れるルートを探しながらなんとか山を越えて、眼下にノクス領が見えたのはさらに二日後だった。
 日のある内は山道を進んで、夜は鼻の利く二人が上手くねぐらを探してそこで雑魚寝だ。最初は不快でたまらなかったんだが、慣れるとしみじみ獣牙族の毛皮は暖かい。特にライの毛並みは本人が自慢するだけあって滑らかで、腹の毛の柔らかさは俺が私室で使ってる毛皮の敷物よりも上等なんじゃないかと思うぐらいだった。
 なにより、ライは寝相が良い。スクリミルも特別悪いわけじゃないが、こいつの場合は寝ぼけて足が出ただけでも、当たったらただじゃ済まない。その点、ライは一度寝たら静かなものでたまにごにょごにょと寝言を言うぐらいだからな。
 ただ、一つだけ大きな問題がある。これはスクリミルとライの両方に言えることなんだが……。
 せっかく人が気持ちよく寝入ってるってのに、機嫌が良くなると二人ともゴロゴロと喉を鳴らすのがうるさいんだ。あれってなにか意味があるのか?
 ライはまだいい。化身して寝ること自体ないし、特に冷え込んだ夜に化身して俺に体温をわけてくれた時ぐらいだからまだしも、スクリミルは毎晩化身して寝る。図体がでかい分、音もでかい。起きてる間は注意すれば慌ててやめるんだが、寝入った後はどうしようもない。
 どうせ山盛りの肉の夢でも見てるんだろうが、間近でいきなりあんな音を立てられてもみろ。最初は落盤かと思ったぐらいだ。ただでさえ狭いところで寝てるのにたまったもんじゃないぞ。
 とにかく、あともう少しで山を超えられる。山を降りたら村があるはずだから、上手くすればそこで宿に泊まって風呂に入れるかも知れない。
 それを心の慰めにまたちらつき始めた雪を手のひらに受け止めて裸になった枝に座っていると、そろそろ聞き慣れた物音がして二人が追いついてきた。
 昨日わかったんだが、俺よりも小動物の方が二人の気配を読むのが早いな。小鳥やリスなんかは俺がいても平気だし膝や肩でくつろぐこともあるが、あの二人が来ると急いで逃げる。
 今もすぐ横の木の穴から顔を覗かせていた小鳥が隠れたから枝の隙間を覗いていたら、二人が現れたんだ。……身の危険を感じるってことなんだろうな。

「鴉王、お待たせしてすみません。水ですよ」
「詫びついでに鹿を狩った。さばいてあるからあとで食おう」
「ついでって…鹿をついでに狩れる辺りがすごいな」

 駆け寄ってきたライが俺に水筒を見せながら言うと、スクリミルは見事に肉の塊になった鹿の成れの果てを荒縄で縛ったものを肩に担いで笑った。
 ライの腰の皮袋もぱんぱんに膨らんで血がついてる。携行用の塩漬け肉を持っていたはずだから、たぶんそこに足したんだろう。

「気にするな。俺は飛べるから早いだけだ。もし翼がなけりゃ、俺にはたぶんこの山は越えられない」
「ああ、鳥翼族の方はそんなに体力がないですからね。でも自分の体重を支えられる腕力があれば大丈夫ですよ。まあ、その前に寒さにやられるかも知れませんけど」
「それはそうだな! なに、貴様が飛べなくなったら俺が背負って行ってやる。心配するな」
「そりゃどうも。せいぜい頼りにさせてもらうさ」

 肩を竦めて言った俺の厭味が通じなかったらしい。スクリミルは豪快に笑ってのしのしと先へ進んだ。
 道がないんだから仕方がないんだが、腰ぐらいまでの高さなら茂みや低木なんてないも同然の足取りだ。一応、出発前になるべく森を傷つけるなとは言ったんだが、スクリミルは派手に草や細い枝をへし折りながら俺が教えた道筋を辿る。
 本人としては太い木をへし折ってないんだから傷つけてない内なんだろうが、ちょっと感動するほどの無造作ぶりだな。
 獣牙族は皮膚も丈夫であんなことをしても怪我をしないのかと思ったんだが、スクリミルが通った後を注意深く歩くライの仕草でそれは俺の勘違いだとわかった。要するに、スクリミルの皮膚が丈夫なんだ。

「おい、その先は急な斜面になってるぞ。落ちたら川だ。今はそんなに水深はないが、落ちるなよ」
「まかせておけ!」
「鴉王、ここをまっすぐですか? 下るんじゃなくて?」
「もう少し先に川を渡る丸太の橋があるんだ。まっすぐ降りたら川の中の岩を飛んで向こう岸に渡ることになる」
「しかし、ここを渡った方が近いだろう。見たところ幅もそんなにない。使えそうな岩もあるではないか」
「そりゃそうだが、もし落ちたら……」

 確かに中継に使えそうな岩もあるし、川幅も十メートルに満たないが、もし落ちて、溺れるほどの水深があったら俺じゃ助けられない。そう思ったから丸太でも橋のある方を勧めたんだが、二人は迷わず下り始めた。
 ……もし渡れないと思ったら諦めて戻るつもりなんだろうが、その方が面倒じゃないのか? この辺りの感覚がわからないのは、俺が飛べるからこんな方面では余り困らないってのが理由なのかも知れないが。
 いざ下ってみると、思ったよりも川の流れが速かった。中継に使える岩も三つしかない。心配になってやっぱり止めようと思ったんだが、まずスクリミルが無造作に向こう岸に渡り、ライも化身して軽がると川を越えて見せた。
 どうやら、俺が思うよりも獣牙族の身体能力ってのは高いらしいな。
 ……俺が知ってる獣牙の連中は、ベオクの屋敷で奴隷として働いていた者ばかりだ。
 中には喉を潰されてたり、脚の腱を切られてるのもいた。
 健康な連中もいたにはいたが、とてもこんな姿は想像できなかった。

「鴉王、心配いりませんよ」

 この川を越えれば、あとは低い山が一つだ。積もった雪が深くなってきた山の茂みをがさがさと掻き分けて進む二人を少し上から見守りながら飛んでいたら、ふと俺を仰ぎ見たライが笑って言った。

「人型の時は、毛皮がない分確かに少し寒いですが、それでもベオクのようにはやわじゃありませんって。ましてオレたちは鍛えてますからね」
「ガリアは暑い国だ。辛いんじゃないのか?」
「あはは。そりゃまあそうですけどね。冬は過しやすいんですが、でも夏は大変ですよ。夏はスパイスの効いた料理を食ってたくさん汗をかいて、風に当たって冷やして過すんです。まああれも慣れると楽しいですけどね。今度ぜひ来てきてくださいよ。鴉王はベオクの国にばっかり行く予定が立ってるでしょう?」
「ベオクの役人はぼんくらも多いが狸も多い。もう少し外交に明るい人材が育たないと難しいだろうな」
「んー、耳が痛いですねえ」

 情けなく笑ったライの耳がぴくぴくと動く。先に進んだスクリミルが「おい!」とライを呼んで、俺は慌てて返事をしてまた上り始めたライの背中を見ながら、またふわりと空に浮かんだ。
 ……もう少し進んだところに背の高い木があるから、先にそこに降りて二人を待つか。このルートなら下りで危険なところはないし、あんまり心配ないだろう。
 一応辺りの警戒をしながら飛んで一番太い枝に腰を下ろすと、先客の毛と尻尾の長いサルが俺を見て抗議するように歯を剥き出し、身軽に隣の木の枝に飛び移った。
 ここはあいつらの住処らしいな。あまり邪魔をしないようにしないといけない。

「……あ」

 ティバーンはもうアイクたちに合流しただろうかとか、道中でなにか騒ぎを起こしてるんじゃないのかとか……。
 取り留めのないことを考えて色の薄くなった木々や茂みを見下ろしていたら、隙間からヒグマらしい毛皮が見えて俺の心臓が一瞬跳ねた。
 でも、動く気配がない。距離を空けてよく目を凝らして気がついた。あれは死体だ。
 冬眠に失敗したんだな。痩せ細って事切れた若いヒグマだった。
 いくらクマでもとても食えそうにないそばの木の皮を必死に剥ごうとしたんだろう。剥がれた爪が幹に残ってる。
 哀れな姿に、なんともいえない気持ちが湧き起こった。死んだヒグマには危険はない。それをよく知ってるんだな。サルやリスがそばを平気で通る。
 駄目だな……感傷的になりすぎだ。
 離れたら、気にならなくなると思った。
 それなのになんでこう俺はあいつのことを思い出してばかりなんだ?

「寒い……」

 また雪になりそうだ。でも、吹雪きはしないな。
 いつも空にいるから、俺たちはこの大陸のどの種族よりも空の機嫌を読める。
 うっすらと青い空にかかり始めた雪雲を見て、俺は深い茂みに下りたまま自分を抱くように腕を回した。
 自分で自分を抱いたってちっとも暖かくはならない。
 でも、べつに死ぬほど寒いわけじゃない。
 油断するとすぐにあいつは俺に腕を伸ばすから、気がつくといつもそばにあったあいつの匂いも、気配も消えていた。
 当然だ。ずっとあいつらと寝食を共にしてるんだから、いつまでも残るはずがない。
 ただそれだけの話なのに、なにをこんなに気にしてるんだか……変な話だな。
 地面に足をつけてみると、茂みの高さは俺の腰から、高いものは胸まである。ここから見上げた空は細く入り組んだ枝とまばらに混ざった常緑樹の葉っぱで遮られて、小さくて、本当に遠かった。まるで迷路だ。
 こんなところをざかざと俺の示した方向へ迷わず進めるスクリミルは、強いんだろうな。身体だけじゃなくて、心の方も。
 なにも考えてないだけじゃないのかって気も少しするが、この場所にいざ下りたらそう思う。
 ………俺にはできない。
 たとえ、ティバーンが示した方向でも。
 リュシオンやリアーネに言われたら……行くかもな。もっとも、あの二人は寄ってたかって俺を支えて飛ぼうとするか、ティバーンを呼んで俺を運ばせるかのどっちかだろうが。
 そこまで考えて少し笑って、俺はまた俯いた。見えない空の代わりに、足元になにか見つかるかも知れないなんて思ったわけじゃない。
 ただ、いよいよ自分の中にごまかしきれずに育ったものがあって、それと向き合う勇気が今はまだ見つからなかっただけだった。




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